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【提言】

 現在、日本には多くの文学賞があり、〈純文学作品〉を対象としたものだけでも10を超えるといいます。

 文学賞は、そのどれもが「優れた作品を選ぶ」という目的でもって当初設立されたはずですが、設立から長い時間を経て、いまや一部の賞は賞自体の権威化・形骸化が進み、「作品が素晴らしかったから評価される」から、「この賞を受賞したから素晴らしい作品なのだ」と結果が優先されることでその在りようを逆転させてしまっている印象を受けます。

 それは、言い替えれば、名のある文芸賞を受賞したからといって、その作品が必ずしも優れているとは限らないということです。出版業界には華々しい受賞歴は持たないものの多くのファンの支持を受ける作家もいる一方で、「賞」によって裏打ちされたはずの「実力」そのものを疑問視せざるを得ない作家も少なからず存在し、事実、ある新人賞では後日、受賞作が盗作であることが読者によって指摘されるケースが見られるなど、近年、読者の「賞」への信頼性が大きく揺らいでいます。

 そもそも、どうしてこのような状況が起こったのか。答えは無数にあるはずですが、そのひとつに、いわゆる〈五大文芸誌〉や純文学作品が、きちんと読み込まれていないことを挙げることができると思います。

 読者の〈文芸誌〉離れの深刻さは、業界内からも指摘されていることですが、同様に指摘されているのが、作家・評論家・編集者といった「業界の内部で文芸に携わる人」であっても、文芸作品、文芸誌掲載作品を毎月全作きちんと読み通しているのは稀である、という事実です。もちろん、純文学にジャンルを限ったとしても無数とも云える出版物すべてを網羅することは物理的に難しいとは云え、その道に携わる側が例えば「忙しさ」「出版物の多さ」などを理由に「自分の目で良い作品を発見する」ことを怠っているとしたら、それはやはり問題ではないのか。 当企画は2011年夏以降、企画有志が文芸誌、文芸作品を読み、ネット上で批評する試みを行ってきました。結果、書評を生業とする識者であってもプロがプロたる仕事をしていない場合もあるのではないか。また、一部の話題作のみが取り上げられるような状況では、実際は水準以下の作品が「文学」としてまかり通り、「読者不在」のままある種の「政治判断」によって実力のない作家が文学者として持て囃されてしまう事態も起こり得るのではないか、との結論を得ました。

 ”なんとなく”設立され、”なんとなく”受賞し、”なんとなく”作者の経歴にクレジットされる「受賞歴」を、読者はただ「権威」として受け取っていればいいのでしょうか?

 一方、ネット環境の整備によって、いまでは家にいながらにしてボタンひとつで本1冊から購入でき、レヴューサイトを覗けば有名無名を問わず様々な一般読者の感想に触れることができる時代となりました(その作品を読まなくても読んだつもりになることも可能なのです!)。

 個人が自由に様々な感想や意見をネット上に書き込むことができ、一億総批評家時代の様相を呈している現代、もちろん、その玉石混交の感想群から本当に質の良いものだけを見つけるのは大変です。しかし、ネットによって評論活動を本業としない読者自身の生の感想、プロ級の良質な批評を読めるようになったというメリットは大きく、twitter文学賞など、ネット発信の新しい文芸評価の動きも生まれ、今後この流れはさらに活性化していくだろうと思われます。

 日本文芸ラジー賞もその流れに繋がり、現状の文学賞のありようへのひとつのアンチテーゼとして、読者みずからの手で選ぶ文学賞を目的に発足しました。【文芸誌部門】・【文学賞受賞作部門】の二部門を設け、また、その対象を、敬遠されがちな純文学作品に限り、年に2度発表される芥川賞の発表に合わせて開催することで、即時性のある文芸批評(投票)を目指します。

読者の声を文学に! 読者の手に文学を!

文芸ラジー賞企画・実行委員会

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